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味方にすら不満を持たれた、徳川家康の曖昧な態度

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はじめに

**徳川家康**は、
敵から恐れられただけでなく、
味方から
「分かりにくい」
「何を考えているのか分からない」
と不満を持たれた武将でもありました。

この曖昧さは、
単なる性格論ではありません。

具体的な場面で、
何度も問題として表面化しています。


背景|家康の態度が問題になった理由

戦国時代の同盟関係は、
一度結べば安定するものではありませんでした。

敵が変われば、
昨日の味方が
今日の重荷になる。

そうした環境の中で、
徳川家康は
一貫して
「はっきりしない態度」を
取り続けた人物でした。

全面的に賛成もしない。
しかし、明確に反対もしない。
判断を急がず、
沈黙を選ぶ。

その結果、
味方であるはずの人物たちが
判断に困り、
不満を抱く場面が
複数の史料に残されています。


① 家臣が戸惑った沈黙

―― 三方ヶ原の戦い直前(1572年)――

最も分かりやすい例が、
三方ヶ原の戦い直前の軍議です。

武田信玄が遠江へ侵攻した際、
家康の本拠である浜松城では、
重臣たちによる協議が行われました。

議題は明確でした。

城に籠もるのか。
野戦に出るのか。
織田信長の援軍を待つのか。

家臣たちは、
主君から
何らかの方針が示されると
考えていました。

しかし家康は、
即答を避け、
意見を聞き続けます。

結論は出ないまま、
時間だけが過ぎていきました。

現場の武将たちは、
「殿は決める気があるのか」
と戸惑ったと伝えられています。

この沈黙は、
家臣にとって
安心材料ではありませんでした。


② 同盟相手を困惑させた曖昧な態度

―― 織田信長との同盟関係 ――

次に挙げられるのが、
**織田信長**との同盟関係です。

清洲同盟以降、
徳川家康は
長く信長と協力関係にありました。

しかし家康は、
信長に対して
はっきりとした意見表明を
ほとんど行っていません。

全面的に従うとも言わない。
反対意見も述べない。
判断を信長側に委ねる。

慎重とも取れる態度ですが、
同盟相手から見れば、
「本気度が見えない」状態でした。

信長が
強硬な行動を取る場面でも、
家康は距離を保ち続けます。

結果として、
信長側の家臣から
「徳川は信用できるのか」
という声が出たとされています。


③ 戦場で不満が噴き出した場面

―― 小牧・長久手の戦い(1584年)――

最もはっきりと
不満が表面化したのが、
小牧・長久手の戦いです。

この戦いで、
徳川家康は
**豊臣秀吉**と対峙しました。

家康は織田信雄と組み、
秀吉に対抗しますが、
ここでも態度は曖昧でした。

全面決戦を避ける。
局地戦に留める。
交渉の余地を残す。

この方針に対し、
前線の武将たちは不満を抱きます。

「戦うのか、和睦するのか」
「どこまで踏み込むのか」

指示が明確でないため、
現場判断にばらつきが生じました。

その結果、
一部の武将から
「殿の考えが読めない」
という声が上がったとされています。


④ 曖昧さが誤解を生んだ同盟調整

―― 豊臣政権下での立場 ――

秀吉が天下を掌握した後、
家康は
豊臣政権の有力大名となります。

しかし、
ここでも家康は
積極的に前へ出ません。

反対しない。
賛成もしない。
最終判断を秀吉に委ねる。

この態度は、
周囲の大名たちに
混乱を与えました。

徳川は秀吉に従っているのか。
それとも、
別の考えがあるのか。

はっきりしないため、
警戒と不信が
同時に生まれていきます。


⑤ それでも態度を変えなかった家康

重要なのは、
これだけ不満や誤解を生んでいながら、
家康が
態度を修正しなかった点です。

即断即決が求められる場面でも、
沈黙を選ぶ。

味方に嫌われる可能性があっても、
踏み込まない。

これは失敗ではなく、
一貫した行動様式だったと
見ることもできます。


余韻|分かりにくい味方だった

徳川家康は、
味方にとって
分かりやすい存在では
ありませんでした。

むしろ、
不安を与える存在だった
可能性もあります。

しかしこの曖昧さは、
複数の戦場と同盟関係で、
繰り返し確認できます。


締め

沈黙し、
決断を遅らせ、
態度を明確にしなかった。

それでも徳川家康は、
その姿勢を変えませんでした。

その事実だけが、
史料の中に
残されています。

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