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同盟相手に振り回され続けた、徳川家康  信長・秀吉に翻弄された具体的場面

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はじめに

**徳川家康**は、
自ら積極的に戦を仕掛けるよりも、
同盟相手の判断によって
行動を制限され続けた武将でした。

相手は一人ではありません。
織田信長
そして 豊臣秀吉

本記事では、
家康が「同盟を結んだがゆえに」
巻き込まれていった具体的な出来事をたどります。


背景|同盟は「守ってくれる」ものではなかった

戦国時代の同盟は、
対等な約束ではありませんでした。

力の強い側が主導し、
弱い側は従う。
状況が変われば、
条件も一方的に変えられる。

徳川家康は、
まさにその立場に
置かれ続けた人物です。

同盟は安全をもたらす一方で、
拒否できない出陣や、
不利な判断を
押し付けられる原因にもなりました。


① 織田信長に振り回された時期

―― 三河・遠江を守れなかった理由 ――

信長と家康の関係は、
清洲同盟から始まります。

表向きは安定した同盟でしたが、
実際の主導権は
完全に信長側にありました。

信長が
浅井・朝倉と戦えば、
家康も出陣する。

**武田信玄**が動けば、
家康の領国が
最前線になります。

特に問題となったのが、
**三方ヶ原の戦い**前後です。

信長は、
信玄に対して
強気な姿勢を崩さず、
家康にも迎撃を期待しました。

しかし、
十分な援軍は
すぐには送られません。

結果として家康は、
自国を守る戦いに
単独で出る形となり、
大敗を喫します。

同盟しているにもかかわらず、
守られない。

これが、
家康が最初に味わった
「振り回される同盟」でした。


② 本能寺の変で立場が一変

―― 同盟が消えた瞬間 ――

1582年、
**本能寺の変**が起こります。

信長が討たれ、
同盟そのものが
一夜で消滅しました。

家康はこの時、
畿内を移動中で、
敵地のど真ん中に
取り残されます。

このとき有名なのが、
**伊賀越え**です。

同盟相手を失ったことで、
家康は
命がけで
自領へ戻る必要に迫られました。

昨日まで
「信長の同盟者」だった立場は、
一瞬で
無防備な存在へと変わります。


③ 秀吉という「別のタイプの同盟相手」

―― 立場がはっきりしない関係 ――

信長亡き後、
家康の前に現れたのが
豊臣秀吉でした。

秀吉は、
武力だけでなく、
調略と人心掌握に
長けた人物です。

家康は秀吉に対し、
はっきりと
敵とも味方とも言えない
関係を続けます。

その象徴が、
**小牧・長久手の戦い**です。

戦では勝つ。
しかし、
最終的には
講和に応じざるを得ない。

戦場では対立し、
政治では従う。

家康は、
秀吉の判断に翻弄されながら、
立場を揺らされ続けました。


④ 人質・移封という「断れない命令」

―― 家族と領地を差し出す同盟 ――

秀吉との同盟には、
明確な条件がありました。

人質の提出。
領地の移動。

家康は、
自らの意思とは別に、
家族を人質として差し出し、
最終的には
関東への移封を命じられます。

長年築いてきた
三河・遠江を離れ、
未知の土地へ移る。

これは、
選択ではなく命令でした。

同盟しているが、
拒否権はない。

家康は、
この状況に
黙って従うしかありませんでした。


⑤ なぜ家康は同盟を切らなかったのか

ここで疑問が残ります。

なぜ家康は、
これほど振り回されながらも、
同盟を切らなかったのか。

明確な答えを示す記録は
残っていません。

ただ、
信長にも、
秀吉にも、
正面から敵対すれば
生き残れない状況だったことは
確かです。

家康は、
振り回される立場を
受け入れることで、
生き延びる道を
選んでいたとも考えられます。


余韻|主導権を持たなかった時代

徳川家康の前半生は、
自ら流れを作るより、
流れに耐える時間でした。

同盟相手の判断で、
動かされ、
戦わされ、
移される。

この経験は、
家康の人生の中で
長く続いています。


おわりに

同盟相手に
振り回され続けた。

それが、
徳川家康の
長い現実でした。

その事実は、
複数の具体的な出来事として、
今も史料の中に
静かに残されています。

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