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三方ヶ原の戦いで、大敗し逃げた徳川家康

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はじめに

徳川家康は、
三方ヶ原の戦いで大きな敗北を経験しています。

この戦いは、
「天下人・家康」の物語の中では、
あまり強調されない出来事です。

しかし当時の記録を追うと、
この敗戦が、
家康にとって忘れがたい体験だったことが見えてきます。


なぜ戦うことになったのか

元亀三年、
武田信玄が西へ向けて進軍を開始します。

その進路上にあったのが、
徳川家康の領国でした。

家康は織田信長と同盟関係にありましたが、
武田軍の動きに対して、
十分な援軍を得られる状況ではありませんでした。

この時、
家康の前にはいくつかの選択肢がありました。

城に籠もる。
戦いを避ける。
あるいは、野戦に出る。

最終的に家康が選んだのは、
武田軍を迎え撃つ、という決断でした。

この判断が、
後に大きな結果を招くことになります。


武田軍との力量差

三方ヶ原で対峙した武田軍は、
当時、最も強い軍勢の一つでした。

武田信玄は、
数々の合戦を経験しており、
軍の統制も高い水準にありました。

一方の徳川軍は、
寄せ集めに近い編成で、
士気も万全とは言えません。

兵の数、
戦闘経験、
指揮系統。

どの点を取っても、
両軍には明確な差があったとされています。

それでも家康は、
戦場に出る道を選びました。


戦いの始まり

三方ヶ原での戦闘は、
早い段階で武田軍が主導権を握ります。

武田軍は冷静に陣形を整え、
徳川軍の動きを見極めていました。

一方の徳川軍は、
攻めるべきか、守るべきか、
判断が定まらない状態だったと
記録されています。

やがて武田軍の攻勢が始まると、
徳川軍はその勢いに耐えきれず、
次第に押し込まれていきました。

戦場の空気は、
短時間で徳川軍に不利なものへと
変わっていきます。


崩れていく戦線

武田軍の攻撃は、
正面だけではありませんでした。

側面からの圧力、
連携の取れた動き。

徳川軍は各所で混乱を起こし、
指示は行き届かなくなっていきます。

部隊ごとの動きもばらばらになり、
戦線は急速に崩れていきました。

家康自身も、
戦況が不利であることを
早い段階で理解していたと考えられます。

しかしこの時点で、
戦いを止める選択肢は
ほとんど残されていませんでした。


逃走という選択

やがて徳川軍は、
完全に劣勢となります。

家康は、
戦場を離れ、
浜松城へ戻る決断をします。

それは、
勝利を目指す判断ではなく、
生き残るための判断でした。

記録によれば、
家康は命からがら
城へ戻ったとされています。

主君の退却に、
動揺を隠せない家臣もいました。

しかしこの場面で踏みとどまれば、
さらなる被害を生んでいた可能性もあります。


浜松城での夜

浜松城に戻った家康は、
すぐに勝利を装う行動を取ります。

城門を開き、
篝火を焚き、
あたかも余裕があるかのように
見せかけたと伝えられています。

これは、
武田軍に深追いをさせないための
対応だったとも言われています。

ただし、
この行動がどこまで計算されたものだったのかは、
断定できません。

確かなのは、
家康が敗北の直後に、
強気な姿勢を取らざるを得なかった
という事実です。


敗戦の記憶

三方ヶ原の戦いは、
家康にとって強烈な記憶として
残ったとされています。

後年、
この敗戦を題材に
自らの姿を描かせたという話も伝わっています。

そこに描かれた表情は、
勝者のものではなく、
敗北を刻み込んだ厳しい顔だった
とも言われます。

この戦いは、
家康にとって
単なる一敗ではなかったのかもしれません。


勝者になる前の敗者

三方ヶ原の戦いの時点で、
徳川家康はまだ「勝者」ではありませんでした。

判断に迷い、
戦いに敗れ、
逃げる選択をした武将の一人です。

この姿は、
後に描かれる天下人のイメージとは
大きく異なります。

しかしその違いこそが、
当時の家康の現実だったとも言えるでしょう。


おわりに

三方ヶ原での敗北と逃走は、
徳川家康の人生の中で、
確かに起きた出来事です。

この事実は、
今も史料の中に、
淡々と残されています。

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